インタビュー

一般社団法人大阪府畜産会×全大阪魚蛋白事業協同組合

大阪の畜産と食品リサイクル

一般社団法人大阪府畜産会 会長 佐竹 洋一
全大阪魚蛋白事業協同組合 代表理事 林 靖晃

かつて「畜産王国」といわれるほど全国屈指の産地だった大阪の畜産業。一般社団法人大阪府畜産会 会長の佐竹洋一氏と当組合代表理事の林靖晃が、食品残渣を利用した畜産経営が主体であった大阪の畜産業の変遷を振り返りながら、都市型畜産と食品リサイクルをテーマに語り合いました。
■都市生活から排出される食品製造副産物。
これを飼料へと有効活用したのが大阪の畜産業でした。

佐竹:大阪の畜産業は、近隣の都市生活から排出される食品残渣を使って畜産を行う都市型畜産です。食品残渣(ざんさ)とは、いわば残飯や食品製造副産物のことで、そういう廃棄物が出る食品工場が大阪には昔からたくさんあったんです。安く手に入る残飯や食品副産物を使わない手はないと。「使えるものは使わな損」という、ある意味、大阪的な発想ですね。古くから大阪では、こうした食品残渣を手に入れて、鶏や豚の飼料にすることで養鶏や養豚を行ってきました。

林:都市型畜産は消費者に隣接した生産現場であることが大きな特徴ですね。生産地と消費地が非常に近い。大阪ではこの地域特性をうまく生かした畜産が行われてきました。大阪は人口の多い大都市ですから、当然、大量に食品副産物が出ます。例えば、漬物を作る場合、白菜の外葉や芯、根っこなどは使われずに廃棄物になります。また、大豆は、油を搾った後に大豆かすが出ます。魚をさばいた後に出る魚あらも同様です。このような食品副産物をなんとか活用できないかと考え出されたのが畜産への利用でした。安価な飼料による畜産経営が都市型畜産の原形になっています。生産者としても、廃棄物にすれば処理費用のかかるものが、飼料として引き取ってもらえたり、買い取ってもらえるならということで積極的に提供していったのでしょう。資源を有効活用して循環させるという仕組みがこうして生まれたんですね。佐竹会長は長年、養鶏場を営まれてきたということですが、どのような経緯で養鶏に携わるようになられたのでしょうか。

佐竹:養鶏をはじめたのは私の祖父です。養鶏は、郡山の金魚と同じく職を失った武士の救済策という側面がありましてね。祖父は、元々紀州藩の出でしたが、明治維新後に生野のほうに来て、養鶏をはじめたそうです。昭和10年ごろに加美へ移り、その後より良い環境を求めて、昭和34年に交野へ移転しました。ちょうど、有畜農業奨励の政策が推進され、農家の副業として養鶏が普及していった時代でした。昭和30年代ごろには鶏卵の生産量が飛躍的に増加しました。当時は大阪だけでも1000軒以上の養鶏業者があったと聞いています。

■食糧難の時代、鮮魚店、かまぼこ屋等の水産加工業者から排出される魚あらが 鶏や豚の蛋白源として活用されていました。

林:戦前戦後の混乱の中での養鶏場の経営には、大きなご苦労があったのでは?

佐竹:食糧難の時代ですからね。特に鶏のエサの調達には大変苦労しました。当時はまだ、必要な栄養分が混合されている今のような配合飼料はありませんでしたから、米ぬかやトウモロコシ、大根葉や人参葉のような野菜くずを自家配合して与えていました。ところが、卵というのは蛋白質ですから、そんなものだけ与えても卵を産んでくれません。良質の卵を産ませるには、蛋白源をどこに求めるかということが重要になってきます。当時、大阪にはカネテツや大寅をはじめ、大小さまざまなかまぼこ屋がありましてね。そこから出る生魚屑(魚あら)を集めてきて、蛋白源として飼料原料にしていましたね。ところが、日によって魚あらの多いときもあれば、少ないときもある。今のように栄養のバランスを計算して作られた配合飼料などありませんから、その加減が難しい。養鶏用の鶏は遺伝的に卵を産むようにできているんです。毎日50グラム以上の卵を産みます。それに見合うエサを与えないと今度(削除)鶏が持たないし、卵も悪くなる。かといって蛋白質を与えすぎると肝臓障害を起こしてしまいます。当時、卵は貴重な食べ物で、病人のお見舞いやお祝いに使うようなごちそうでしたから、何とかして飼料の栄養成分を一定にして、鶏卵の品質を上げようと試行錯誤しました。

林:残渣利用ゆえに、飼料内容と栄養バランスが不安定になりがちで、鶏卵や食肉の品質の安定、向上が難しい面もあったようですね。私の祖父も元々畜産業を営んでいたこともあり、当時の大阪の畜産事情については良く聞いていました。住宅地に近い都市型畜産は、臭気、水質、虫の発生、家畜の鳴き声などによる近隣地域の生活環境への影響に敏感にならざるを得ず、近年は継続が困難になって廃業する方も増えてきました。そうした畜産農家の方から魚あらの排出先を引き取らせてもらったり、得意先をご紹介していただいたりといったことで畜産会さんとは長年ご縁をいただいています。

■魚あらは、貴重な価値ある資源。
当時、魚あらの取引には莫大な保証金が必要でした。

佐竹:昔は、魚あらのリサイクル業者さんが大勢おられましたね。中には養鶏場と兼任されている方もおられましたよ。魚あらと言えば、かまぼこ屋ですね。大阪にはとにかくたくさんのかまぼこ屋がありましたから、魚あらはそこから仕入れていました。当時、魚あらを仕入れるのにも入札がありましてね。何万もの保証金を積んで、魚あらを買い取っていました。昭和20年代でしたか、30年代でしたかなあ。中卒の初任給がわずか3,000円というような時代でしたからね。その時代に万単位の保証金と言うのは桁違いに大きな金額だったんです。しかし、莫大な保証金を支払ってでも、取引したい、のどから手が出るほど魚あらが欲しいという人がたくさんおりました。それだけ魚あらは貴重で価値のあるものだったんですね。

林:かまぼこ屋は、店舗や販売店を出すときに、魚あらのリサイクル業者や養鶏場、農家などから契約金や保証金を前金でもらって、それを元手に店舗を運営していたと聞いています。

佐竹:そうです。今は、魚あらは産業廃棄物のように扱われていますが、当時は分けてもらうには、何万とか10万とか、そりゃもうびっくりするような大金が必要だったんですよ。「あんたとこと取引するからこれだけ前金をそろえて来なさい」とね。そういう慣習を利用して、わざと計画的にね、保証金を先に受け取って、ある日突然夜逃げしてしまうようなかまぼこ屋もあったくらいです。

林:魚あらが廃棄物という考えになってきたのは、昭和50年代以降ですね。それまでは魚あらは全部買い取りでした。先日、かまぼこ業者様の組合に呼ばれてご挨拶する機会があったのですが、「当時は大変お世話になりました」とお声掛けいただきましてね。今そういう方々にあらためて魚あらの価値を見直してもらえるのは大変ありがたいことだと思っています。

■水産資源をめぐる争奪戦が世界規模で激化。
持続可能な資源リサイクルがますます重要になっています。

佐竹:近年は、魚などの水産品が近隣諸国の乱獲などによって漁獲量が激減し、魚粉の値段も高騰してきていますからね。魚粉の原料となる魚あらも、かつてのように再び貴重なものになりつつあり、その価値が見直されてきているのではないでしょうか。

林:魚の美味しさに世界が気づき出したのでしょうね。ヘルシー指向とあいまって、世界的に魚食がブームとなり、魚介類の消費が急速に増加しています。世界的な需要の拡大に伴って近隣諸国の乱獲も激しさを増し、水産業界を取り巻く環境は非常に厳しいものとなっています。また、日本の水産会社も世界に向けてどんどん高価な魚の輸出を進めているという事実もあります。その影響で、日本の魚事情は確実に悪化していますね。当然、魚あらの発生量もこれから減っていくと思われます。魚粉飼料もますます高騰するでしょう。しかし、これが私たちの未来なんです。5年後、10年後未来を予見して現状をどうしていくかということが今の課題ですね。魚あらも今までのように廃棄物というわけにはいきません。おそらく、かつてのように魚あらが取り合いになるような時代が再びやって来る日も近いのではないでしょうか。私たちは魚あらをはじめ、食品残渣のリサイクルや飼料化を通して、限りある資源の持続可能性を今後も追求していきたいと考えています。